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奇蹟がくれた数式  数学者ラマヌジャンの実話を紹介。

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「インドの魔術師」などと呼ばれ、

アインシュタインをも凌ぐ大天才として知られる

数学者ラマヌジャン。

 

そんな大天才の生涯を描いた映画

「奇蹟がくれた数式」が2016年10月22日より公開されます。

 

今回は彼がどのような人生を送ったのかを紹介していきます。

 

 

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ラマヌジャンを見つけた男

ラマヌジャンが歴史に埋もれずに発掘されたのは、

ケンブリッジ大学のハーディ教授のおかげです。

 

ラマヌジャンは自分の書いた公式を色んな教授に出しましたが

どこの馬の骨かわからないラマヌジャンの手紙を

真剣に読んでくれる人はいませんでした。

 

しかし、ハーディ教授だけがラマヌジャンの才能を見抜き

ケンブリッジ大学へ招待しました。

 

しかし、イギリスへ渡ったことはラマヌジャンにとって

幸せばかりではありませんでした。

 

それは彼の故郷インドで育まれた人格が大きく影響しています。

 

ラマヌジャンの生い立ち

ラマヌジャンは南インドのいなか町で産まれました。

 

父は織物店で働き、母はラマヌジャンを溺愛し、

ラマヌジャンにヒンドゥー教の女神ナーマギリを信仰させ、

カーストの掟を徹底的に教え込みました。

 

カースト制には階級があり、

バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シェードラで

ラマヌジャンはバラモンの出身でした。

 

階級は上ですが、バラモンは物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを

求める階級だったので、家は貧しかったそうです。

 

ラマヌジャンは数学だけではなく、

小さな頃から勉強がずば抜けて優秀で、神童と言われていました。

 

そんな彼が15歳の時に出会った本。

 

それが「数学要覧」という

学生の受験勉強で使う参考書のようなものでした。

 

今ではこちらで見る事ができます。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/828226/3

僕には何が書いてあるのかチンプンカンプンです。

 

この本と出会ってしまったことで、彼の人生が一変してしまいます。

 

 

数学に没頭するあまり、他の勉強をしなくなってしまい、

大学から奨学金が打ち切りになって

それが原因で大学を中退することになったのです。

 

それでも、彼は数学の勉強を辞めませんでした。

 

 

そんな息子を心配したラマヌジャンの母は、

ジャーナキという女性(9歳)と結婚させますが、

数学への興味は尽きるどころか、ますます深まっていきました。

※21歳で9歳と結婚した??すごいなインド。

 

22歳で就職し、働きながら自分の成果を手紙にし

ハーディの目に留まったことによりイギリスへ渡るチャンスを得ます。

 

ハーディとの共同研究の際、次々と公式を発見するラマヌジャンに

ハーディは驚き、どうやって公式を見つけたか尋ねると、

 

「夢の中に女神ナーマギリが出てきて教えてくれた。」

 

そこに論理などなく、直感的な閃きだけで数々の公式を

生み出したラマヌジャンはまさに異次元の存在と言えます。

 

しかし、順風満帆に見えたイギリスでの生活は

「重大な問題」によって徐々に破たんしていきます。

 

ヒンドゥー教とラマヌジャン

ラマヌジャンは厳格な菜食主義者でした。

 

一切肉を食べず、

バラモン以外の人が作る料理は穢れているとし、

外食をすることもありませんでした。

 

さらに戦争の影響で十分な野菜が配給されることもなく

健康的な食事を摂ることが困難だったのです。

 

問題だったのは、食事だけではありません。

環境に馴染めず、友人もいなかったのです。

 

そんな状況の中、徐々に精神を蝕まれ、

体を壊したラマヌジャンは入院してしまった。

 

病気で体を壊したラマヌジャンに追い打ちのように知らされたのは

インドにいる妻と母の折り合いも悪く、妻が家を出て行ってしまったということ。

 

そして追い込まれたラマヌジャンは自殺を図ります。

 

ロンドンのホームから線路に身を投げたが、

電車がギリギリ10cmの所で止まり、死なずに済みました。

 

イギリスで唯一の味方であるはずだったハーディも、

ラマヌジャンのプライベートに踏み込もうとはせず、

ハーディ自身も戦争反対の人に力を貸すのに忙しく、

ラマヌジャンの精神的なケアはできなかったのです。

 

それからラマヌジャンは病院を転々としますが、

身体がよくなることはありませんでした。

 

そして、第1次世界大戦が終わった1919年(31歳)の時に、

インドに帰ることになったのです。

 

インドではラマヌジャンはイギリスを驚愕させた

大天才としてマドラス大学で教授として迎え入れられました。

 

しかし、昔のラマヌジャンを知る友人たちは

そんな栄誉よりも彼の変貌ぶりに驚いたのです。

 

ガリガリにやせ細り、性格も陰気になっていました。

 

インドに戻ったことを知り、妻ジャーナキが家に戻ります。

しかし、母との折り合いは依然悪いままでラマヌジャンは

「帰ってこなければよかった」と愚痴をこぼします。

 

それでも研究を続け、インドに戻って1年後、32歳で亡くなります。

 

ラマヌジャンの功績

ラマヌジャンの功績の偉大さを示す表現に

「アインシュタインの特殊相対性理論は2年以内に

誰かが発見しただろう。それには必然性があるからである。

ラマヌジャンの公式にはその必然性が見えない。

ということは、ラマヌジャンがいなければ100年経っても

その公式は見つかっていないということだ。」

 

頭がいい天才という枠ではなく、

「どうしてその公式を思いついたのかがわからない」

という程の天才だったのです。

 

それは彼自身にも言えることでした。

ラマヌジャンは「証明」という概念を持っておらず

どうしてそうなるかを説明できません。

 

彼の死後、彼が書き記したノートが見つかっていますが

未だに証明が終了していない式が数多くあるようです。

 

ラマヌジャンを発掘したハーディは

「私が生涯にしてきた数学の仕事など大した貢献ではない。

しかしラマヌジャンを見出したことは最大の発見だった。」

 

と言い、数学者に点数をつけるのが好きで

自身を25点、リトルウッドを30点、ヒルベルトを80点

そしてラマヌジャンは100点をつけたそうです。

 

その天賦の才はニュートンに並ぶものだとまで評価しています。

 

 

そんな天才を生涯を描いた映画

「奇蹟がくれた数式」は10月22日から公開です。

 

 







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